『冷たい温もり』 「尾崎さんは、」 「うん?」 「体、つめたい?」  番組収録が終わり、帰りの車の中――絵理が私にそう言った。  絵理は運転中の私の肩に、頭をもたれかけさせている。少し運転しにくい。私が両手を 動かしているのだから、絵理だって乗せ心地は悪いだろうに、構わずに密着させてくる。 それが何だかいじらしい。 「私、冷たいかしら。自分ではそんな感じしないけど」 「うん、尾崎さんは、ちょっと体温が低め。冷え性?」 「別に寒いわけじゃないんだけど……」 「“手の冷たい人は、心が温かい”?」 「あー。よく言うわね、それ。でも、私は迷信だと思うわ」 「どうして? 尾崎さん、優しいのに」  絵理に真顔でそんなことを言われると、すごく恥ずかしくなる。彼女は総て本気で言 っているのが分かるからだ。年下の女の子にそんな顔を見せるのも恥ずかしいので、私は 顔を背ける。 「例外があるじゃない、ってこと。絵理だって体はあったかいけど、優しい子じゃない」  私から言わせてもらえば、絵理の体はとても温かい。小さな体なのに、とてもぽかぽか している。冬のときに抱きしめたらさぞ気持ちいいことだろう。 「…………」  絵理が困惑したように、頭を動かす。“照れる”という感情表現が苦手な彼女は、黙り込 むことをその代わりとしている。少しやり返せたようで気持ちいい。  それから、しばらく車に沈黙が落ちた。肩に触れる絵理の頭から、確かな温もりが伝わる。  信号待ちになって、ちらりと絵理に目線を落とすと、眠かったのか彼女はうとうとしてい るようだった。  ――閉じられたまぶた。長いまつげ。整った目鼻立ちに、ピンク色の唇。  ほんとうに、綺麗な顔だと思う。  触れたい、と思う。触れて、自分のものにしてしまいたい。そんな衝動に駆られる。  でも、そんなことはできない。絵理はもう、私だけの絵理ではないのだから。  人気が出たバンドやアイドルを、有名になる前から知ってたと言い張る人たちがいる。多 分、私もそういうクチだ。  私だけが知る、素顔の絵理。それを、独り占めにしたい。  ……でも、絵理のランクがあがり、色んな番組に引っ張りだこになるにつれ、絵理の“素 顔”も徐々に明かされてゆく。  収録の合間。事務所の同期アイドルとの会話。移動中。はてはプライベートに至るまで、 テレビは絵理をカメラに映してゆく。  それが悪いことだとは言わない。水谷絵里ファンは、彼女の色んなことを知りたいだろう し、現に、絵理は素顔を晒せば晒すほど好感度が増すのだ。  でも―― 「……こんなに大人げなかったかしら、私」  はぁ、とため息をつく。  絵理と日々を過ごすと、自分の矮小さが身に染みる。  ほんとうに、色んなことを教わった。狭かった私の世界を広げてくれた。自分の過去と向 き合わなかった私に、勇気をくれた。お金よりも、地位よりも――何よりも大切なものをく れた。  絵理がデパートの屋上に、トロフィーを持ってきてくれたあの日――彼女は私を選んでく れた。茨の道になろうとも、隣にいることを望んでくれた。  嬉しい。とても、嬉しい。  けど。  ――まだ、罪悪感が消えたわけじゃない。  そんな罪悪感を抱き続けている自分も矮小だと思う。絵理は今も隣で、私を信頼してくれ ているのだ。それが答えだ。  なのに、私の隣にこの子が立つことを、申し訳なく思ってしまう。  一緒にいたいのに、一緒にいるべきではない。  相反する感情。  私は―― 「……尾崎さん、」  話しかけられた。絵理だった。起きていたのだろうか…… 「な、なに?」 「クラクション、鳴ってる?」 「……え」  ふと我に返ってみれば、信号はとっくの昔に青になっていて、いつまでも動き出さない私 に、後続車はクラクションの大合唱だ。 「ご、ごめんなさいっ!」  誰に向けるでもなく言ってから、私は慌てて車を発進させた。  どれほど真面目に考え込んでいたんだろう……絵理はクラクションのせいで起きてしまっ たらしい。 「……はぁ」 「尾崎さん、最近、ため息増えた」  絵理がじっとこちらを見て言う。 「そう……?」 「うん。悩み事?」 「悩み事といえば、そうかもね。次のライブのこととか、」 「嘘」  ――普段は語尾にクエスチョンマークをつけるくせに、そういうときだけ絵理はぴしゃり と言う。 「そういう悩み事じゃ、ない」 「…………」  肯定と同じだと分かっていても、私は沈黙するしかなかった。 「…………じー」  絵理が私をじっと見る。私の真意を問いただす視線ではなく、糾弾するようなそれだ。  ――多分、バレてるんだろうな、とは思う。絵理にはきっと、浅ましい私の考えなんか。 「尾崎さん。今日、私はもう仕事終わり?」 「え? え、えぇ、そうよ。何か予定があるの?」 「ちょっと寄って欲しいところ、ある」  ぽつりと、けれど強い口調で、絵理はそう言った。  私は黙って頷くことしかできなかった。 * * *  絵理の指定した場所は―― 「……ここ?」 「うん」  デパートの、屋上。  絵理とお互いを確かめ合った場所。  夕日に包まれた屋上は、いつも以上に寂れて見える。  風が吹き抜けて、埃を舞い上がらせる。それに目を瞬かせながら、絵理は言う。 「もう一度」 「……え?」 「もう一度、やり直す?」 「……やり直す、って……?」 「あの日を」  真っ直ぐな目で、絵理は言う。 「尾崎さん。私は、尾崎さんの隣がいい。尾崎さんがいないんなら、ネットの中に閉じこも ってたほうがいい」 「ぁ……」  絵理は私へ、優しく微笑む。 「尾崎さんが不安なら、私は、何度でも言うから」  絵理は手を差し出す。  おそるおそる、私は握り返す。  ……そうして分かった。彼女も、小さく震えていた。 「だから、そんなこと、思わないで」  それは不安なのか、恐れなのか、哀しみからなのかは分からなかったけれど――  なんだか、絵理のそんな気持ちが嬉しくて。それと同時に、自分が情けなくて。  私たちは、また抱きしめ合ってわんわん泣いて。結局、“あの日”をもう一度繰り返すこと になってしまった。  絵理の体は、  やっぱり、温かかった。  日が暮れて、夜になった。  太陽の熱がなくなって、屋上には冷たい風が吹き抜けている。上着がないと涼しいかもしれ ない。  でも、私たちは平気だった。 「尾崎さんにこうしてもらうの、好き」 「そうなの?」 「うん。尾崎さんと私の体温が、溶け合う感じがして。いっしょになれる」 「……そうね。私も、好き」  絵理の体は――温かくて、柔らかい。 「さっきの話」  ふと思いついて、私は絵理に言った。 「さっきの?」 「えぇ。手が冷たい人は心が温かいっていう話。あれは多分、順序が逆なのよ」 「逆?」 「えぇ。心が温かいのが先で、それが体温に現れてくるんじゃない?」 「……そう、かも」  絵理はぴったりと私に身を寄せて、囁くように言う。 「なら、尾崎さんの冷たさ、わけて」 「……絵理の温かさも、ね」  温もりを分け合えるように、私の不安は絵理に吸い取ってもらおう。  その代わりに、私が絵理の不安を消してあげられたら、いい。 “二人でいる”というのは、きっと、そういうことだから。 「絵理」 「?」 「ごめんなさい。……もう少し、このままで、いい?」 「うん」  ちょっとだけ嬉しそうな絵理の声。  私は、少しだけ強く、腕に力を込めた。  時計が、動きを止めて。  月だけが、ただ、抱き合う私たちを見つめていた。